戦後、北洋で起きたこと

  • 2016.10.17 Monday
  • 04:50

戦後、母船は大型化し、木製の独航船は鋼鉄製に変わました。魚探やレーダーは格段に進歩し、戦前は操業不能であった濃霧のアリューシャンでの操業を可能にします。

日本の船団は勢いに乗ります。北洋に出たくとも出られなかった戦後の虚しい日々から開放され、漁師たちは喜びを胸に出漁します。抗戦やシベリア抑留で亡くなった仲間達の分も獲ろうと、万感の思いを込めて網を上げ、漁師のプライドに賭けて獲れ高を競い、日本の高度成長の担い手の一人であることを実感したに違いありません。

 

しかし、時代は変わります。

昭和51年、ソビエトが自国の沿岸200カイリを漁場専管水域に指定。日本にとっては圧倒的な漁獲削減に直結する200海里時代に突入します。

 

鮭は生まれた川に戻り、子孫を残すので、鮭にとって母川の国に圧倒的な権利があるというのが、国連海洋法の考え方です。(母川国主義)公海で操業する日本船であっても、母国へ帰ろうとする魚を根こそぎ獲ってしまうことは認められなくなりました。

 

毎年の交渉を重ねるにつれ、日本の漁獲量の割当は減り、漁業協力費は高騰。広大なロシアの沿岸を縁取るように広がるロシア領海から、日本船は徐々に締め出されていきました。

 

日本の母船式サケマス船団の最後の出漁は昭和63年です。平成になると、資源保護の観点からも公海でのサケマス漁は禁止となり、北洋漁業は日本とロシアの200海里内での操業に限定されます。そして今年、平成28年から、ロシアの排他的経済水域でのサケマス流し網漁が禁止され、長年親しまれた本紅という日本船が北洋で獲る紅鮭が消えました。

以上が、紅鮭にまつわる長い物語です。

 

実は昨年、ロシアの上院でサケマス流し網漁禁止の法案が可決された時に、北海道の新聞記者が訪ねて来られ、産地の事情を知りました。さらに先月、稚内を訪れた際、沖に見えそうなサハリン(樺太)の、あまりの近さに驚き、調べる中で、北洋で鮭を獲った人々の生と死、果てしない夢と挫折の歴史を知りました。

 

今、世界的に海洋資源は減少しており、市場で日々魚を見ていても、マグロ、ウナギ、サンマ、サバ、イカ…日本人にとってポピュラーな魚種が次々に不漁に陥っています。昔のような鷹揚な売り買いが難しく、今後は時代に応じた魚との関わり方が求めらます。

 

私は鮭を商う中で、産地の方々との交流を深め、食べる皆様へのより良い橋渡しをしていく所存です。もし、私どもの鮭を食べていただく機会がありましたら、このような話を思い出していただければ幸いです。

 

2016.9.22(写真:稚内からサハリンを望む)

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